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シーサイドライナー物語

どうも、うみみちです。

今日は我がブログの1周年記念日。
今回は、その特別編です
それでは、どうぞ。
シーサイドライナー物語
1.プロローグ
長崎県の駅にて青い気動車が止まっているのを見たことがあるだろうか?
横には「SSL」のロゴが入ったディーゼルカーを。
キハ66/67-3 諫早
それは、快速列車「シーサイドライナー」である。
長崎と佐世保(竹松)を結ぶ快速列車は、人々の足として走り続けるのであった。
だが、その裏には急行や特急の存在があったのである。

2.大村線急行話
大村線は、昔から栄えていた大村を経由して諫早と早岐を結んでいる路線である。
元は長崎本線なのだが、戦前に諫早~肥前山口が開通したため大村線となった。
その大村線に1960年、準急列車が走りだした。
名は「出島」である。
出島
※イメージ
名の由来は、長崎市内にある、江戸時代の貿易拠点であった長崎にあった島から由来している。
当時は、夜行列車「ながさき」の補助的列車として走り始めたのである。
しかし、出島の活躍は短命に散った。
2年後、準急「九十九島」が設定され重複する区間の多かった「出島」は、長崎本線の列車となったのである。
その後、九十九島は急行列車に格上げされた。
九十九島
※イメージ
今となってはJRの急行列車は2つしか存在しないが、かつては多数存在していたのである。
昭和43年の通称「ヨンサントオ」改正により、九十九島は「平戸」に名称を変更した。
平戸は、キリシタン文化が栄えていた町である。
ちなみに、出島という愛称は関西対佐世保間の夜行急行から来ている。
その後も、福岡と長崎を松浦方面などを経由して走っていたのだが1983年に革命的な出来事が起こる。
福岡市営地下鉄1号線(現 空港線)の室見~姪浜間が開業したのである。
福岡市1000系 博多
これにより、筑肥線は都会の中のローカル線から脱却したかのような変貌を遂げ、直流電化の電車が走ることになったのである。
これにより、平戸は唐津までとなったがルートは変わらず運行し続けてきた。
その後、1988年に松浦鉄道が誕生したと同時に廃止となった。
九十九島時代(準急含める)からおよそ26年。大村線戦後の急行列車の時代(準急含める)は28年で幕を閉ざすのであった。

3.快速誕生
1988年から年月は少し遡ること2年、1986年に快速列車が誕生した。
すでに他の町では快速列車が誕生したりしていたため、その波に乗ったかのような感じである。
誕生当時はまだ1往復のみ。今となっては、少ないとしか感じられないほどの少なさであるが、これは急行列車が存在していたためであろう。
1988年からは本格的に運転が始まったようで、5往復に増便される。
しかし、誕生以来無名のまま走っていた。
1989年からはようやく愛称として「シーサイドライナー」の愛称が付けられたのであった。
ヘッドマーク
愛称が付けられたと同時に、車両(キハ58/65など)の塗装変更が進んでいた。
初期の塗装は緑色が主に塗られており、正直思うのだが、これだと「海沿いよりは山の中」というような感じしかしなかった。
そして、号数表記を始めると共に増便がなされ9往復と片道一本が設定されたのであった。
1992年には、増便がなされ13往復片道2本が設定された。
運行開始時と比較すると、急成長ぶりがうかがえるだろう。
1994年には、シーサイドライナーにキハ200が導入された。
キハ200
キハ200は、筑豊などで当時「赤い快速」として活躍していたため、スピードの速さなどが実証されているため、長崎にも導入されたのだと思う。
そして塗装も、いつの間にか今のような青い色に変更されていた。

4.大村線特急話
大村線には、1992年から「ハウステンボス」駅が存在する。
これは、長崎県佐世保市針尾島にあるテーマパーク「ハウステンボス」へのアクセスを便利にするために設置された。
また、ハウステンボス~博多を結ぶ特急「ハウステンボス」も誕生した。
特急ハウステンボス
しかし、ハウステンボスが大村線を走るのは、早岐~ハウステンボスの1区間にしか過ぎない。
それに、今回紹介するのはハウステンボスではない別の列車である。
知ってる方もいると思うが、特急「シーボルト」である。
使用車両は、今豊肥本線で「あそぼーい!」として活躍するキハ183系1000番台である。
1999年から、車両が1編成しかないため2往復のみとなったが運行を開始した。
長崎~佐世保を結ぶ特急として活躍した・・・と思ったら、世の中甘くない。
なにせ、同区間を走る快速が存在しているのだ。
特急はもちろん特急券や場合によっては指定席券などが必要となるためお金がかかるが、快速だと乗車券だけで済む。
乗車券
※イメージ
結局、快速列車に負けてしまったシーボルトは、2003年に廃止となった。実に短命であり、正直「誰得?」な列車であった。

5.そして現在へ・・・
2000年、見事ノストラダムスの大予言がハズレた翌年。松浦鉄道乗り入れが中止される。
実はシーサイドライナー。松浦鉄道に乗り入れていたのであった。
現在では立場が逆転しているのだが、どっちにしろおもしろい。
2年後、現駅舎が竣工し乗り入れが再開された。
佐世保駅駅舎
しかし、区間は佐々駅までに短縮され松浦鉄道線内も各駅停車となった。
さらに、キハ66/67とキハ200が電化された筑豊地区から転属し、快速列車に充当されたのであった。
キハ66/67-3 諫早 2
ワンマン運転が開始されて効率のよい快速となったと同時に、名車が引退した。
キハ58/65は、16年間快速列車に充当し続けてきたが、全国的に置き換えが進みその波は長崎にも流れてきたのであった。
キハ58
※イメージ
2005年には、号数表記も取りやめられ今の形にだいぶ近づいてきた。
そして2006年には、松浦鉄道乗り入れが中止されたものの、竹松止まりの快速列車もシーサイドライナーに含まれることになった。
また、2010年頃からは大分から転属してきたキハ220が加わり、キハ200+キハ220の3両編成が見られるようになった。
キハ220×2
キハ200+220、3両編成 諫早
さらにキハ66/67どうしによる4両編成が走ることから分かるとおり、シーサイドライナーは長崎県では重要な列車となったのである。
4両快速 諫早
普段何気なく利用する列車ひとつひとつにも、隠れたヒストリーがある。
シーサイドライナーだってそうだ。
この列車の裏には、急行列車や特急列車が存在していたという歴史がある。
そしてさらに、シーサイドライナーは歴史を作り出していくのだ。
カラフルな列車は、今日もただ海沿いをエンジンをうならせて走り続けていくのであった。
今日も、明日も、そしてこれからも・・・。

おまけ.キハ66/67は長崎になじめたのか?
キハ66/67快速 諫早
キハ66/67第10編成+787系
キハ66/67第12編成 諫早
キハ66/67は、長崎で運行し続けてから10年近くになる。
しかし、筑豊で活躍していた時代は26年である。
さすがに故郷が恋しいのだろうかと思うのだが、彼はすっかりなじめたようだ。
上の写真の通り、キハ66/67だけで3種類の塗装が存在するのである。
こんな車両は、日本全国探してもそうはいないだろう。
また、長崎になじめた証拠?として、よく臨時列車に運用されることが挙げられる。
急行からつ 小長井
西海(回送) 早岐
雲仙 諫早(1)
これは、先輩格のキハ58/65が引退してしまっているというのも理由の1つではあるが、長崎支社はこれからもキハ66/67に何らかの可能性が秘めてあるのだと思っているのではないだろうか?
1975年から走り始めたキハ66/67。
36歳という鉄道車両としては高齢なのだが、未だに最前線で活躍している。
キハ66/67のこれからに期待しよう。僕はそう思う。
(語り・・・キハ200)
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島鉄100周年記念記事(5)

※最初から読むのをオススメします
5.観光資源は天罰を下す
1990年11月17日のことだった。
島原半島中央に聳える雲仙普賢岳の九十九島火口と地獄跡火口から噴煙があがった。
一部の人からすれば大災害が起こる予兆と考えていた人もいるかも知れないが、おおかた、珍しい噴火の光景を見に島原に来る人が多かった。
もちろん、車やバス、船、そして鉄道を利用する人々がいたわけであり、特に鉄道を利用されるとなると島鉄としては有り難い話であった。
しかし、大災害が起こるという予兆は当たっていた。
20年前の6月3日。16時8分頃に大火砕流を報道関係者含む43名の人々の命を奪い去った。
大火砕流(テレビから)
※テレビ番組から
そのため、南島原~布津が警戒区域になり、休止せざるを得なかった。
さらに、土石流の発生で安徳~瀬野深江の線路を埋没や流失してしまう。
当然、こんな事が起これば一気に観光客は減り、ただただ噴火の恐ろしさという物を考え直す必要が出てきたのである。
島鉄はその後、深江~布津で運転を再開した。

1992年の11月3日には、島鉄の列車が前面衝突事故を起こしてしまった。
列車事故現場
※イメージ
当然こんな事があればさらに安全性を高めていく必要があると思う。
安全性を高めるため、1993年の師走にATS(自動列車停止装置)の使用を開始した。
同年の卯月には、通算5度目となる土石流による運行の休止が発表された。区間としては外港~深江である。
しかし翌年には、島原がんばる号が運転された。
これにはきっと「島原は噴火に負けず、頑張っていく」という島原半島の人々、イヤ長崎県民の願いがこもっているのであろう。
さらに、この年から今の島鉄の主力機は2500形が運行開始。
2501
彼らは島鉄復興の使者として現れた島鉄の名車でもある存在。決して末期色とか言わないで下さい。
彼らは、旧型気動車を次々と置き換える車両でもあり、ワンマン運転が可能と言うことで、合理化にもいいものである。
1997年には急行が復活。それぞれ「かづさ」と「しまばら」と愛称が付けられていた。
急行2
さらには、島鉄の乗客を呼び戻そうとトロッコ列車の運転を開始した。
トロッコ(1)
島鉄ハッピートレインと名付けられたこの列車は、噴火災害の歴史を語るボランティアなどによる語り部が乗務し、噴火の歴史を語っていた。
しかし見える景色は、噴火によって消えた町などであったが、これにはきっと噴火を知らない子供たちへの何かのメッセージでは無かろうか?

最終章.別れという名の哀しみを越えて
1999年には、かづさ号が廃止となり、ある意味短命に終わってしまった南目の急行であったが、それでも南目線は生き続けた。
さらに、島鉄全区間でワンマン運転が開始され、島鉄もようやくここに近代化がなされたようである。
2001年には、島鉄で最も新しい駅「幸駅」が開業し、記念切符「幸せを愛しの吾(わ)が妻へ」が発売。
幸駅
2002年からは、旧国鉄色に塗られたキハ20が運行を開始した。
キハ20国鉄色
キハ20国鉄色2
この塗装は話題を呼び、鉄道ファンが全国から集まるきっかけとなった。
鉄道ファンだけでない、懐かしさを求めた中高年の方々も見に来ていたのである。

しかし、島鉄の大きな転機となったのは2007年のことであった。
島鉄が南目線廃止を発表したのである。
南目線は、噴火災害終息後も赤字が続き、いつの間にか社内全体の赤字の8割を占めるほど大きな物となっていた。
そして2008年。島鉄南目線加津佐駅から、最後の警笛が鳴らされ、80年の歴史に幕をとざした。
その警笛は、どこか哀しげでもあった。

2009年には、創立100年を迎えた。
その年の島鉄まつりでは、植木のことも語られており、注目を集めていた。
やはり100周年という事もあってか、なにかしら人々の数は多かった。
そして、2011年6月20日。島鉄1番列車が走り始めて100年が経った。
今まで、赤字、災害、モータリゼーションなどの哀しみ、国鉄乗り入れ、新線開業などという嬉しさがあった。
決して、ずっと良い道を歩んできたわけではないが、島鉄が立派に見えてしまうのは私だけだろうか?
長崎県の諫早駅0番線。今日もこのホームから黄色い列車は島原半島へ向かって走り続ける。
栄枯盛衰な歴史を歩んできた島鉄。噴火災害のときは日本中から支援されてきた。
しかし今度は恩返しをする番だ。
今、三陸鉄道が廃線まぎわの状態となっているが、あきらめないでほしい。
諦めなかったら、きっとイイ未来がそこに待っているから。

最後に、この物語を編集したうみみちが、東北地方の皆様へ応援のメッセージを届けます。
うみみちから東北へ
いくつもの日々を越えて、たどり着いた今がある。
だからもう迷わずに進めばいい、栄光の架け橋へと。
終わらないその旅へと。
君の心へ続く架け橋へと・・・。
※ゆず「栄光の架け橋」より

島鉄100周年記念記事(4)

※最初から読むのをオススメします。
4.華やかな日々も今は昔
1966年、国鉄でのパートナー列車と位置付けてもいい列車、準急「ながさき」が急行に昇格するという嬉しいお知らせが入った。
しかしこの「ながさき」もやがては没落していき、夜行普通列車となって廃止となった。
その2年後には島鉄にCTC(列車集中制御)が導入された。
CTC
これによって、島鉄から蒸気機関車が撤退しディーゼル機関車D37が導入されていった。
急行「ながさき」もこの年の10月に「いなさ」に改名された。
この頃からやがて、南目線の運命が決まっていくような出来事が始まった。
1972年に、南島原~加津佐の経営合理化目的の廃止について沿線住民と協議がされていたのだ。
やはり最初は反対していたのだろうが、その後の出来事がこの線路の運命を変えたのであった。
そしてこの年に、島鉄線内で急行が島原~諫早で運転され始めた。
さらに11月には、国鉄博多乗り入れ便が1往復増便されており、まさに衰え知らずの島鉄乗り入れ列車であったが、陰では赤字となっていた。
そんな状況を打開しようと、1974年には島鉄が「島鉄再建5ヶ年計画」が発表された。
翌年1975年には、急行「いなさ」が、急行「出島」に改名された。
急行「ながさき」はこれで2度目の改名である。
しかし急行「ながさき」もやがては電車特急に置き換えられて、廃止となっていった。
これにより、島鉄も1980年に乗り入れを中止したが、名残としては今でも諫早駅にはJRとの渡り線が残っている。
1984年にはD37が3両中2両が廃車となったため、お別れ式が挙行された。
D37は今でも1999年に廃車となった03編成が、深江町にある「ふかえ桜パーク」の一角で保存されている。
D37 深江町
このD37は先ほども言ったとおり、03編成が事業用として1999年には慰謝されたが、2両は廃車解体されている。
これによって、島鉄貨物輸送も終止符が打たれた。
ちなみにだが、南島原駅の隅には、貨車と車掌車と事業用の車両が留置されている。
放置プレイ中
事業用車両は関係がほとんど無いと思われるが、貨車と車掌車は貨物輸送時代に使われていた物であると考えられる。
ちなみに、D37は最大貨車15両を引くことの出来る、私鉄の機関車にしては力が強い機関車であった。
1985年には、島鉄きっての名車キハ20が国鉄から4両転属してきた。
キハ20国鉄色2
2007年度には、キハ2003,2018,2019を除く5両が元国鉄車両であったという。
話を本題に戻そう。
さて、1986年には島鉄は黒字経営となった。
しかしこの黒字も長くは続かなかった。
平成元年には、急行列車が廃止となったが島原駅2代目駅舎が開業した。
島原駅
今までは開業時(大正時代)の物を使っていたというからすごい。

島鉄が、その後没落していったのは次のお話で。

島鉄100周年記念記事(3)

※最初からお読みになるのをオススメします。
3.没落から栄光へ
事の発端は1935年のことだった。
雲仙鉄道が島原鉄道に経営委託されたのである。これは、経営不振とだったと言うことでの出来事であった。
この頃になると、小浜や雲仙へ向かう道路が整備されていき、バスも運行が開始されてきた時代であったため、経営不振となったのであろう。
しかしそれでも長続きはせず、結局1938年に雲仙鉄道は解散し、愛野村~雲仙小浜は廃止になった。結局雲仙鉄道は15年くらいしか存在しなかったことになる。
雲仙鉄道のSL
※駅跡の石碑から
廃線跡はその後、県道として整備されているが、鉄道時代の面影が色濃く残り、特に木津の浜駅跡はプラットホームまで残っているという。

さて、雲仙鉄道をやむなく廃止にしてしまった島鉄だが、1943年に口之津鉄道と島原鉄道が合併し、2008年までの島原鉄道の線路が出来上がった。
こうして島原半島を半周する78.5㎞の長大私鉄が誕生した。
戦後、1949年に島鉄きっての名車でもあり迷列車でもあるC12が誕生した。
C1201
一見すると国鉄の機関車のように見える、それもそのはず、車両の構造はほとんど国鉄C12と同じ物となっているからである。
C12は、中型機関車で使い勝手がとてもよく、戦後間もない頃には各私鉄が次々と採用していったのである。
その私鉄のC12の数少ない保存車両として、保存状態が悪いが島原市内にある霊丘公園にて保存されている。
その機関車で、最も大きな功績といえば戦後の私鉄初のお召し列車牽引である。
1949年に昭和天皇がこの智を訪れた時に使用されたのがこの機関車なのだ。

しかし世の中は白状である。
1957年に集中豪雨によって線路が流失したのであった。いわゆる、これが諫早大水害である。
諫早大水害は、諫早の観光名所でもあり、当時は近くの本明川にかかっていた諫早眼鏡橋が流されたのである。
そんな豪雨災害を受けた島鉄もこれまでかと思われたが、社員や地域住民などの必死の復旧作業によって1959年までにカンペキに復旧した。
そんな島鉄の復旧工事の際、陣頭指揮に経ったのが宮康平である。
宮康平
そんな宮康平を有名にしたのが、「まぼろしの邪馬台国」である。
この作品は2008年に映画化され、大ヒットした名作である。

話を戻そう。
その間1958年には、島原湊~長崎の国鉄直通列車が2往復運転開始となった。
24年ぶりの島鉄車両長崎直通となったのである。
1960年には、国鉄の準急「ながさき」に併結する形でキハ26形気動車による博多乗り入れを開始した。
ヘッドマーク
しかしこの年に島鉄の旅客列車からSLが撤退した。C12は11年ほどしか旅客列車が運転できなかったのである。
1962年には、釜の鼻、東大屋2駅を業務委託化するなどちょっとしたスリム化がされたが、その年の10月には国鉄乗り入れが小倉まで延長された。
また、長崎駅には島鉄連絡所が設置されたのであった。

島鉄の更なる栄光と哀しき日々は次回で紹介する。

島鉄100周年記念記事(2)

※前回から見るのをオススメします
2.鉄道は島原半島1周するか
島鉄はその後も1913年9月までに、今の南島原まで線路を延伸した。
南島原駅舎
その翌年、ある会社の創立協議会が行われた。「南目軌道」である。
その後南目軌道は、後の島鉄南目線となった。その話は後ほどで。
そして3年後、1917年には島原鉄道が株主総会で南目軽便鉄道(後の島鉄南目線)と愛浜軽便電気鉄道(後の雲仙鉄道)の株式引き受けを決定した。
1918年には、不知火鉄道が湊町(現 南島原)~口之津村の線路敷設の免許を取得した。
これは、後の島鉄南目線が建設されることが決定したことである。
これには壮大な計画があった。島原半島を1周する鉄道計画である。
植木は、島原半島を繁栄を願って考え出したのだが結局は失敗に散る。
何せ、工事の難所と思われる地域が存在しているからである。
例としては、加津佐や南串山の境目付近に当たる津波見地区である。
急勾配をできるだけ避けたい鉄道は、平地を進んでいく。
しかし、後の島鉄加津佐駅に接続するには海沿いを進んでいくしかない。
しかし、そうなった場合海水に強い車両が欲しくなる。
実際関門トンネルなどでは、EF81の300番台が導入されたあ、その車両はステンレスで出来ていた。
ならば、ステンレスの車両でも作りたいところだが、当時にはオールステンレスやセミステンレスの技術も未熟であったがために、結局は線路を敷設することを断念した。

そして1919年には口之津鉄道の創立総会が挙行された。
これで本格的に鉄道が出来ることとなった。
さらにその翌年には温泉(うんぜん)軽便鉄道、そのまた翌年には植木が小浜地方鉄道を設立した。
温泉、小浜地鉄というのは、やはり島原半島1周の思惑で作られたり、はたまた温泉街への利用客を狙ってということで設立された。
そして、1922年口之津鉄道が島原湊~堂崎を開業させた。
堂崎は漁港があり、漁業が盛んであった。
その後も、立て続けに1923年の温泉軽便鉄道愛野村~千々石開業、1926年の口之津鉄道堂崎~南有馬(後の原城)開業、1927年の小浜地方鉄道千々石~肥前小浜(後の雲仙小浜)が開業と、島原半島はまさに新線ラッシュであった。
肥前小浜駅跡
※肥前小浜駅
その間に、温泉軽便鉄道は温泉鉄道と社名を変更した。
これは、島鉄が狭軌(1067ミリ)であり、その島鉄に乗り入れできるようにと考えたのかも知れない。
はたまた、もっと別の思惑があったのか?
そして、小浜地鉄も線路開業してから2ヶ月後には小浜鉄道と社名変更した。

1928年には、口之津鉄道が南有馬~口之津、口之津~加津佐を開業させた。
これにて口之津鉄道は全通したのである。
1933年には、小浜鉄道+温泉鉄道=雲仙鉄道となった。
愛野~小浜の鉄路がスッキリしたようにも思える出来事である。
翌年には、島鉄に転機が訪れる。
2月15日から、ガソリン客車が運転開始したのである。
ちなみにガソリン客車ではないが、いかにもと思える形式名の車両が福島を走っていた。
沼尻鉄道ガソ101・・・何とも言えない。
さらに、3月25日~5月23日は長崎国際産業博覧会により島鉄が国鉄に乗り入れたのである。
島鉄と国鉄の縁は、戦前からあったのである。

しかし、島原半島の鉄路にあることがあったのは次回の話。
プロフィール

うみみち

Author:うみみち
ブログ終了のお知らせ。今後はサイトを更新していきます。
詳細は、11月3日。

~プロフィール~
在住・・・長崎県
職業・・・中学生
好きな車両・・・885系(黄帯編成)
趣味・・・鉄道撮影、ニコニコ動画で動画見るなど多数。
好きな食べ物・・・りんごとか色々
嫌いな食べ物・・・卵とか
その他・・・アニメが好き(特に銀魂)。

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