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成鉄のホームページが完成しました!

どうも、うみみちです。

昨日、登録が完了し成鉄のホームページが完成しました!
http://www3.hp-ez.com/hp/naritetu-com/page1
まだまだ内容が少ないですが、これからドンドン更新していくつもりです!
ちなみに、私のホームページは業務提携を結んでいる三共急行さんのホームページを参考とさせていただきました。
http://www4.hp-ez.com/hp/sankyudentetu/top
これからも分からないことがあると思うので、よろしくお願いします。
さて、ホームページの内容についてですが、主に成田高速鉄道(架空)の話題と島原鉄道の特集をやっております。
詳しくはご覧になってください。

おまけ
京阪13000系 京阪HPから
※京阪電鉄のホームページから
京阪13000系です。
どうやら第1編成が寝屋川車庫に運ばれて、構内試運転を行ってるようです。
また、第2編成が製造中のようです。
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成鉄社史(7)

どうも、うみみちです。
(1)からお読みになることをオススメします。

7.そして今へと
1984年には成鉄の哀列車とも言うべき存在、2500系が誕生する。
2500
今までの電車とはうって変わって全部塗りの車両ではなくなった。
また、赤色中心だった成鉄としては初の青色採用であったため「伝統潰し」「発注ミス」などとも揶揄されていた。
しかし、この電車は将来不動山電鉄に乗り入れるべく設計された車両のため、不動山電鉄の行き先などが幕に書いてあったようだ。
しかし、乗り入れることはなかったという。
また、この年には新池崎線と軍人線が開業した。
軍人線は鴨川方面への連絡目的でJRの新軍人駅と接続している。
しかし、この時はまだ鴨川電鉄は線路を敷設していなかったが後に大事件を起こすことになるとは思いも寄らなかった。
1986年には社長が桶川から西野喜助にかわった。
彼は鴨川方面への線路敷設が遅いと言い張っていたのだが、鴨川電鉄に問い合わせたら突然謝罪したという。
何事かと思えば、実は資金難で路面電車を運営していくのがやっとだという最悪の現状を知ってしまったのである。
鴨川電鉄によると
「1944年頃には大津名~完山~場戸~金森まで開通しましたが、その後のオイルショックなどで資金難となった。大変申し訳ない」ということだ。
これについて西野は
「これは鉄道会社として大いなる失態だ」と痛烈に批判し、鴨川電鉄は第3種鉄道事業者になって成鉄に車両を全社譲渡し路線を走る車両は成鉄のものとせよ、とした。
これが鴨川事件である。
警察沙汰ではないのだが、会社関係が悪化しているということで、成田高速鉄道ホールディンクスにも子会社にも未だ加盟していない(路面電車部を除く)
そんな中、2110系が導入された。
2110
赤色(正式にはオレンジバーミリオン)に緑色の帯を巻いており、さわやかな印象でデビューした。
成鉄初のダブルデッカー連結、VVVFインバーター制御車として話題を集めた。
また、2両と8両に分割できる「新成鉄編成」と呼ばれる編成構成を初めて採用しており、クモハが存在する。
そして突貫工事をして金森まで繋げることにしたのである。
1988年には亜島線が全線開業をし、それと同時に本線複々線化工事が始動する。
複々線化工事はその後2004年まで続くことになる。
翌年からは平成となり、それと同時に大手私鉄と認められ成田高速鉄道と社名を変更。成鉄ホールディンクスが始動し始め、その子会社として里山鉄道、不動山電鉄、里山鉱山鉄道、鴨川電鉄路面電車部が登録されているが郊外線部は未だに登録されていないようだ。
そして、記念車両として8000系がデビューする。
8000
2扉ながらも着席通勤を目的としており、主に通勤快特に使用されている。
また、久しぶりの1色塗り車両として未だに人気が高い。
1991年には新軍人~金森間開業と共に複々線化が一部区間で終了した。
それと同時に鴨川電鉄所有だった客車や機関車も全て成鉄所有となった。
1994年には、地下鉄安佐久佐線乗り入れ開始をするとして、今の最大勢力である2230系が導入された。
2230
2004年までに10両固定編成5本、5両+5両編成7本、2両+8両編成10本が導入されているという最大勢力である。
1999年からはIGBT素子VVVF車両が登場した。
乗り入れに対応しており、羽田空港まで乗り入れが可能である。
計画としては金沢文庫まで乗り入れたいのだが、ダイヤの都合上難しいと言うことだ。
これと同時に西野から安村邦久へと社長が変わる。
1995年には複々線化が新今田~川里国際空港を除く区間で完了したが、工事は一旦終了とした。
これは貝園線を当時は別荘地として賑わっていた北条峡への延伸をしようと判断した成鉄が延伸工事を始めるためである。
1998年には玄関口の新貝園までの延伸工事を終了させたが、北条峡では地盤の弱かった土地が災いしたか災害が多かったと言うことで別荘が減っていったのである。
そのため、駅周辺は空き屋だらけであった。しかし、延伸計画は凍結しておらず保留という扱いだったようである。
2000年。ミレニアム記念として8850系を導入した。
8850
久しぶりの特急車両ということで人気が高く、有料快特(後のNAX)「かもめ」「なぎさ」で使用されることになった。
特徴は、美濃岡圭治氏デザインであるため高級感漂う室内が特徴であった。
また、最高時速も160キロまで出せるとなっているということで、今では140キロまで出すことがあるようだ。
そして貝園線延伸は中止と言うことで幕を閉ざし、複々線化工事を再開する。
2004年に複々線化工事が終了し、記念列車が走った。
記念列車には8850系が充当され、「祝!複々線」という表示が見られたのがなつかしく感じる。
翌年には2000系が導入される。
2000
特徴はスピード感溢れるデザインで、2230系と同様130㎞まで出せる。
2000系は、2230系と共に成鉄通勤電車の顔として活躍し始める。
2009年には、成鉄営業の貨物列車が終了したが機関車は車庫内入れ換え機、貨物予備機として今後も在籍するようだ。
2010年には、大阪新町高速鉄道さんと乗り入れ協定を締結し翌年から乗り入れることが決定。
翌年7月から乗り入れ運転が開始され、祝賀会が開かれた。
テープカット
そのかげで2500系が引退し、機器流用のため車両1編成(5両+5両編成1本だったので、その内の1つ)を不動山電鉄双子山工場へと搬出した。
蒙1編成は、クハ1両を除き改造しようとしたが、改造中に事故が発生し改造できないとして改造中止宣告を今年1月発表した。
生き残ったクハ1両は乗務員訓練用として残すつもりである。

8.エピローグ
川里県ではもはやトップの地位に立った成鉄。
かつての院鉄を越すという発言がココに達成されたのである。
これからもJRを越す勢いで頑張っていこう。
何事にもめげずに。
そして過去のいざこざを私が解決しようと、現社長である私がここに宣言する。
さて、私は筆を置いて職務に就こうかな。
2012年1月15日、筆者海田路男記ス

成鉄社史(6)

どうも、うみみちです。
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6.路線網大変革
1968年には川里国際空港(後に愛称KAXとなる)が川里市あらた区に開港した。
川里国際空港は滑走路も大きめに造られているハブ空港として開港したのであった。
それと同時に成鉄もあらた~川里国際空港を開業した。
また、それにあわせて本線の高架化工事が進められた。
さて、時は遡ること1961年。
原田~山本に新線を作ることとなり、それと同時に野久保駅が開業した。
しかし、坂田川がやはり難関であった。
死者も出たようで、2人が流されて亡くなっている。
そのような事故もあったが、結局1963年にその区間の工事が終了し書院~野久保が坂田川線となった。
さて、話を戻そう。
1970年には待望のあらたトンネルが開業した。
このトンネルは複々線対応の構造で、川里国際空港~新今田を結んでいる。
これの開業によって本線の切り替えが終了した。
また、同時に社長も佐田から桶川書尚(おけがわ ふみひさ)に変わる。
桶川は元成田市長であり、成鉄の現状も把握していた。
桶川は成鉄についても好意的な反応を見せているため社員にとっては期待大であった。
そして1972年。元本池崎線が1970年から休止となっていたのだが線路の撤去をすることになった。
廃線跡はサイクリングロード「鉄どーろ」として再生されている。
愛津~水晶観音
※イメージ
また、貨物線として開業していた原田~不動電国鉄成田の路線は地下化すると共に新池崎線として旅客路線としての再生をすることになり工事を始めた。
1975年には、2100系電車が量産され始めた。
2100
特徴は成鉄初の界磁チョッパ制御車両で、省エネ化に貢献している。
また、10両固定編成と5両固定編成が量産された。
お披露目会は高架化されたばっかりの新しい本池崎駅で公開された。
1978年には亜島線の成鉄船橋~新亜島(現 亜島りんかい)が開業した。
新亜島には車両基地を出来ており、また、延伸も押上橋方面の延伸を可能とする設計になっていた。
1980年には貝園電鉄が貝園線として成鉄に買収される。
これと同時にスイッチバックを解消するために堀下トンネルが開業した。
また、本池崎が成鉄成田に改名され、ターミナルらしさがより漂う駅となった。
また書院、南山市・北川市を経由する北川線の原田~南山市が開業する。

成鉄社史(5)

どうも、うみみちです。
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5.高度経済成長
1948年になって軒原電鉄は鴨川への支線の計画をもくろんでいた。
鴨川市は房総半島第一の都市と言うことで昔から工場などが多かった。
そこで軒原電鉄では集客をもくろんで延伸を計画したが、鴨川を走る路面電車である鴨川電鉄から待ったをかけられた。
鴨川電鉄は
「我が社が延伸するから待っておきなさい」
と告げてやめてくれと言ったのである。
軒原電鉄ではやむを得んとして中止することにしたのである。
1955年には川田電鉄が改軌工事をようやく終了させた。
そして軒原電鉄も社名を成田軒原電鉄から成田鉄道へと社名を変更し、同時に遅めではあったがバス営業を始めた。
また、同時に本線切り替え工事が開始。
これは書院駅のターミナル機能が引っ越すことを意味していたのであった。
書院駅から本池崎駅にターミナル機能を移すこととしたが、これは本池崎駅前の再開発によって利用者が増えたためである。
本社も書院から本池崎へと引っ越すことになったのであった。
翌年には里山鉄道の支線であった新(あらた)線が川田電鉄に買収されている。
里山鉄道では営業が出来ないと川田電鉄に営業を委託したのである。
1960年には里山線が開業した。
これによって川田電鉄と成田鉄道の線路は直結したのであるが、まだまだ乗り入れは行われていない。
駅名変更も多々あったようである。
1964年には川田電鉄最後の事業であった東京上野駅などの地下化が終了し成鉄上野(新日暮里)と改名した。
そう、川田電鉄と成田鉄道はこの年ついに合併し新しい成田鉄道が誕生したのである。
これと同時に東京五輪が開幕し、早速1番列車は大混雑となった。
0系!
※1964年のイメージ
1966年には今の本線の軍人町~新今田になる今田線が開業した。
これは将来の新(あらた)~軍人町短絡のあらたトンネルを作るために出来たのであった。
あらたトンネルは全長10.5㎞と私鉄保有のトンネルでは日本一の長さであり、佐田の思い描く本線複々線の目論見もあるのか、複々線スペースも同時に掘られることになった。
翌年には現在の成鉄の電車で最古参となる1300系が導入された。
1300
成鉄初のオレンジバーミリオン塗装は沿線の人々の目を驚かせつつも、デザインはシンプルであるのが特徴。
この車両は当時の最大連結両数に合わせて5両固定編成とした。
現在でも中間車の増結は行われず、ほぼ導入当時のままで活躍する。
また、この年には新(あらた)駅が読み間違い多発などによって平仮名の「あらた」に改名した。

成鉄社史(4)

どうも、うみみちです。
(1)からお読みくださることをオススメします。

4.戦争の時
1938年頃、貝園電鉄が軒原一番まで線路を延伸したと共に駅名を軒原一番から根津島町へと変更した。
根津島・・・はて、どこかで聞いたことのある名前だと思ったあなたは間違っていない。
そう、初代社長の根津島慶一氏に感謝の意を表してつけられたのである。
元々根津島は軒原村出身だったが、親に捨てられて親戚の住む成田に引き取られていたのである。
哀しい思い出もあった根津島の生涯はココから始まったのである。
1941年、川田電鉄は1435ミリへと軌間を変更し始めることとなった。
これは日本軍軍部からの指令といわれているが実際は定かではない。
これと同時に鉄道省に乗り入れたがってた里山鉄道も変更することとなる。
結局戦局の悪化により工事は1943年に中止されているが、戦後になってからまた開始されるようだ。
1944年には大論争が再び発生した。
軍部と仁志氏が根津島町駅改名についてである。
軍部は
「わが軍隊の基地をココに置くことになった。そのため、駅名も立派に軍人町(このころ「ぐんじんまち」と言っていた)と改名してもらいたい」
それに対し仁志は
「あなた方のような下劣な集団のために改名するというのは恥だ」
と強気の体勢を見せていたが、この発言におこった軍部は仁志を後に暗殺し、社長も軍部から送った山本勘助元日本軍曹長となる。
こうして軒原に軍の基地ができたのであった。
片島 1
※イメージ
1945年5月5日には川里県全域で空襲があり、特に軒原の被害は酷かった。
軍の基地は荒れ果てて壊滅に近い状態となり、集落も壊滅したのであった。
当然軒原電鉄の車両にも影響が出ており、車庫にいた車両は全車両が燃え、駅舎も全焼したのであった。
このような状況でで終戦を向かえた軒原電鉄にとって頭を抱え込ませる問題が被害総額であった。
被害総額は現在の価格で5億円ぐらいといわれるほど酷かったのである。
軒原電鉄は、赤字経営に陥ると共に借金の2億円が残ってしまう。
この借金は2009年に滞納問題となり、2010年にやっとで返済されたのである。
社長については、戦争犯罪人として死刑が執行されたため、社長は根津島慶一の子孫に当たる佐田正平が選ばれたのである。
佐田は就任会見の際
「私は祖父を越す!これからは大進歩の時代だ!」
と堂々と発言した。
プロフィール

うみみち

Author:うみみち
ブログ終了のお知らせ。今後はサイトを更新していきます。
詳細は、11月3日。

~プロフィール~
在住・・・長崎県
職業・・・中学生
好きな車両・・・885系(黄帯編成)
趣味・・・鉄道撮影、ニコニコ動画で動画見るなど多数。
好きな食べ物・・・りんごとか色々
嫌いな食べ物・・・卵とか
その他・・・アニメが好き(特に銀魂)。

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